2010年2月27日土曜日

プライバシー権のアンビバレンツ

プライバシー権は確かに高級な人格権であり奢侈財である。日本社会全体が貧しかった頃にこの権利を主張する人はいなかっただろう。お互いに支えあい協力しなければ生活そのものが成り立たなかった牧歌的な社会にプライバシーは不要だった。

日本社会の資本主義化に伴って次第に貧富の差が拡大して行くことになる。資本主義の本質が差異である以上いたし方のない社会の「進歩」だ。他人の支えというある意味「やっかいな」ものに依存しなくても生活を営める豊かな階層が形成されて行く。

富の象徴はヴェブレンが指摘した「衒示的消費」として表現される。しかし過剰な見せびらかしは大衆の過度な好奇心と妬みを生み出してしまう。もはや圧倒的な格差を衒示的消費で誇示することは賢明な行為ではなくなった。そこで彼らが編み出したのは、大衆の好奇の目から隠すべきものを保有しているということを見せびらかすことだ。個々の衒示的消費の代わりにプライバシー権を主張することが富の証明になったのだ。

隠すことを見せびらかすという二律背反がプライバシー権の本質だ。それ故、隠すべきものを実は持っていない人でもプライバシー権を主張することが可能だ。隠すべきものを見せないことがプライバシー権だからだ。こうして、富の象徴のはずのプライバシー権が富を偽装する手段となり急速に蔓延してしまった。そして、本当に隠すべきものを持たない実は貧しい人ほど偽装が暴かれることを恐れてプライバシー権を頑なに主張することとなる。誰も気にも留めない個人情報しか持っていない人ほど自分の個人情報保護に執着するのと機序は同じだ。

プライバシー権とは何か?

日本の法体系にはプライバシー権(1)を明文化した根拠法がない。刑法上で名誉毀損罪と侮辱罪の隣接犯罪として扱われることもあるが、多くは民法上で不法行為か債務不履行として、損害賠償金の形で事後的に処理されている。

刑法は公序良俗を護る法で、その為に公権力が発動されるが、名誉毀損罪や侮辱罪は親告罪であり、プライバシー権侵害も同様に親告罪だとすれば、被害者が告訴しない限り検察は公訴できないので、事前の公権力による取り締まりはできないことになる。民事訴訟を起こして勝訴しても損害賠償は事後的なものだからプライバシー権侵害の完全な救済にはならない。

憲法第13条(2)を根拠とする説があるが、そもそも憲法は国家と国民の関係を規定する公法であり、私人間効力は原則としてない。従って、行政府と私人の間のプライバシー権問題には憲法が適用できたとしても私人間の問題については別途特別法が必要だという点からも根拠とするには不十分だ。

プライバシー権の定義として現在定説化されているのは、「自己情報をコントロールする権利」(3)というものだ。しかし、これはプライバシー権そのものを明確に規定しないままにその擁護のための手段と方法を自己目的化した定義に過ぎない。また、「自己情報」の定義も欠けているために、プライバシー権の拡大解釈による乱用の危険性が大きい。また、高度に発達した現在の情報化社会においては「自己情報のコントロール」は事実上不可能であり、プライバシー権の侵害は恒常的となり、法益として意味をなさない。さらに、本来もっとも擁護されるべき「不可侵私的領域」における自律権や平穏・静謐な生活を護る権利がプライバシー権に含まれないことになってしまい定義としては包括性に欠ける。

日本で最初のプライバシー権侵害裁判である三島由紀夫の『宴のあと』裁判において東京地裁が示したプライバシー権侵害を構成する4つの要件を参考にして定義すると、「プライバシー権とは、不可侵私的領域における個人情報の公開の可否や公開の程度と対象を自ら決定する権利(個人情報のコントロール)、不可侵私的領域に属する事柄についての行動や決定を自ら行う権利(自律権)、及び平穏・静謐な生活を妨げられない権利をいう」となる。

個人情報は、それ自体がプライバシー権にかかわる情報を含んでいるもの(「プライバシー権情報」)と、それ自体ではプライバシー権情報に属さない個人情報(「個人識別情報」)に大別される。プライバシー権情報は、本人の承諾なしに開示するとプライバシー権の侵害となる。個人識別情報は、その開示自体はプライバシー権侵害にはならないが、いったん不可侵私的領域に属する事柄と結び付けられると(「アンカリング」(4))、その情報全体がプライバシー権情報となる。

プライバシー権は高級な人格権だが、必ずしも生活必需品ではなく、他の基本的人権に優先するものではない。プライバシー権は円満な社会生活や正当な経済活動と調和させることが大切であり、公知の事実にはプライバシー権は認められないこと、公共の場ではプライバシー権は収縮することを理解し、常に公共の利益と比較考量する必要がある。

(青柳武彦著『個人情報「過」保護が日本を破壊する』第4章を要約)



(1) 法律上の権利としての「プライバシー権(the right to privacy)」の起源は、Samuel D. WarrenとLouis D. Brandeisが1890年にHarvard Law Review誌に掲載した"The Right to Privacy"という論文だとされている。http://groups.csail.mit.edu/mac/classes/6.805/articles/privacy/Privacy_brand_warr2.html

(2) 「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」 All of the people shall be respected as individuals. Their right to life, liberty, and the pursuit of happiness shall, to the extent that it does not interfere with the public welfare, be the supreme consideration in legislation and in other governmental affairs.

(3) "individuals want to be left alone and to exercise some control over how information about them is used" :David Flaherty(1989)

(4) 「自己情報コントロール権によれば、個人データが漏洩や盗難によって、本来の保管責任者の手から離れて放置されることは、情報主体者の自己情報コントロール権が侵されるわけだから、プライバシー権侵害となる。つまり、同説では動的なプライバシー権侵害行為がまだ存在していなくても、静的な侵害誘発状態に置かれるということ自体が、すでにプライバシー権侵害であるということになる。ところが、民法第709条の一般不法行為が成立するための一般的要件は次の四つだ。(1)加害者に故意、または過失があったこと、(2)違法な権利侵害が現実に発生したこと、(3)損害が現実に発生したこと、(4)権利侵害と損害発生の間に相当因果関係があること。少なくとも住基ネットが対象としているような基本的個人識別情報については、この不法行為理論と相容れない。この種の個人情報は、公知の事実であるからそれ自体にはプライバシー性はなく、秘匿したい事柄とアンカリング(投錨)されてはじめてプライバシー権侵害となる。つまり、個人情報が漏洩して静的な侵害誘発状態に置かれたということは、セキュリティ事故が起きたことを意味するだけだ。プライバシー権侵害行為も損害の発生もまだ起きていないのだから不法行為の要件に合致しない。」...『情報化時代のプライバシー研究』青柳武彦 (著) エヌティティ出版 (2008/4/25)

2010年2月15日月曜日

景観は誰のものか?

風景の美は長い間、権力も財力も教養もない庶民には無縁だった。少なくとも文人の趣味として歌枕などに定型化された風景の美は庶民には存在しないに等しかった。明治時代になっても、志賀重昂は、『日本風景論』を著して、それまで一部の趣味人に独占されていた風景の美を「万人に開かれたものにすべきだ」と主張しなければならなかった。日清日露戦争の頃にベストセラーになった同書は、しかし、国粋主義者だった志賀が西欧列強に劣らない日本の伝統文化の優秀性を風景の美に求めて民族主義を鼓吹する意図から書かれたものだ。志賀の「意図」の方は皇国史観と共鳴して見事に遂げられ、日本はファシズムに傾斜していったが、彼の「主張」は、必ずしも実現せず、後に柳田國男をして「庶民は、...大切な風景を壊して未来の幸福を失おうとしている」と言わしめる状況が形成されていった。


風景の美そのものが、定型化されたものから、生活者と文明の営みが作り出す日常的な景観にまで拡大されるには、大正デモクラシーの時代まで待たねばならなかった。しかし、この時代、柳田國男は早くも「生活者としての庶民が風景をつくる主体なのに、風景を鑑賞する意識も目もなく、まして自分たちが風景を作る力をもち、責任があるという自覚がないままでいいのか」と警告していた。

日本が経済発展と引き換えに国土を荒廃させ美しい景観を破壊するという歴史は既にこの時代から始まっていたのだ。『美しき日本の残像』で新潮学芸賞を受賞したアメリカ人で東洋文化研究者であるアレックス・カーは、「川という川を見ればダムで堰き止めねば気が済まぬ土建経済によって、日本は豊かさの中で立ち腐れてしまった」と嘆いている。古き良き伝統景観や自然環境が破壊され、日本は「世界でもっとも醜いかもしれない国土」になったと言っている。

あまりに遅きに失したというべき「景観法」が施行されたのは2005年(平成17年)のことである。「美しく風格のある国土の形成、潤いのある豊かな生活環境の創造及び個性的で活力ある地域社会の実現」を図るとするこの法律は、面白いことに「景観」は何かという定義をしていない。

景観法制定以前の「和歌の浦景観訴訟事件判決(和歌山地裁)」(1994年)で、歴史的景観権ですら、「その内容は不明確であり、権利として成立するには未だ成熟した概念をもつものではない」として、その権利性が否定されている。また、「国立市・大学通り景観権訴訟判決(八王子地裁)」(2001年)でも、「良好な景観は何人であってもその好みに従って発見することができ、享受できるもの」として憲法13条(個人の尊重)や憲法25条(生存権)に基づく人格権的な景観権は否定された。

これまで、歴史遺産や公的に認定された建造物の保全に関しては法的根拠が認められても、少なくとも行政訴訟において、歴史的な意義が認められる景観の保全が認められることは、昨年の「鞆の浦景観訴訟(広島地裁)」で埋め立て工事の差し止め命令が出るまでは皆無であった。ある程度評価の定まった歴史的景観に対する景観権についてさえも法的根拠は必ずしも明確ではないのだから、個々人によって感じ方が異なる日常景観に対する景観権が認められないのはやむを得ないだろう。「良好な景観」に関する共通の判断なしに景観権を認めれば、特に日常景観に関しては、個々の住民がそれぞれ異なる景観権を主張して住民間に対立が生じる懸念が否定できない。

そうだとすれば、「景観法」が「景観」を定義できないのも止むを得ないだろう。千葉県県土整備部で景観法を担当している公園緑地課景観づくり推進室に、「良好な景観は誰が決めるのか?」と尋ねてみたが、「地域住民の意向を最大限尊重する」としか答えてもらえなかった。

季美の森団地を開発した東急不動産の営業マンは、「環境を買って頂きます」というセールストークを使っていたそうだ。景観は環境を構成する重要な要素だが、実際には景観そのものを所有することはできない。景観は、排除性(対価を払った人しか消費できない)と競合性(ある人が消費すると他の人は消費できない)の両方を否定する立派な「公共財」だからだ。

景観権も認められず、公共財としての景観は直接所有することもできないとしたら、良好な景観はどのようにして保全すべきなのだろうか。その点に関しては、景観法はいくつかのガイドラインを示している。

「住民は、...良好な景観の形成に関する理解を深め、良好な景観の形成に積極的な役割を果たすよう努めるとともに、国又は地方公共団体が実施する良好な景観の形成に関する施策に協力しなければならない。(景観法第6条)」

「良好な景観は、...地方公共団体、事業者及び住民により、その形成に向けて一体的な取り組みがなされなければならない。(景観法第2条第4項)」

「良好な景観は、...地域住民の意向を踏まえ、...その多様な形成が図られなければならない。(景観法第2条第3項)」

「良好な景観は、...国民共通の資産として、...その整備及び保全が図られなければならない。(景観法第2条第1項)」

季美の森の住民の多くは、醜悪な都市景観を嫌って移り住んできたはずだ。「メタセコイアやケヤキやアメリカフウの美しい並木道」に魅了されて転居してきたひとも多いだろう。もしかしたら、営業マンの惹句に乗せられて、美しい景観を「購入」したつもりの住民も多いのではないか?

確かに景観は公共財だから、誰にも妨げられずに美しい景観を堪能することが可能だ。いくら消費(鑑賞)しても減らない商品(景観)を購入できたのだからお買い得だ。商品に不具合が出れば、販売者に品質保証(保全)を求めれば済むことだ。こんな風に思っているのではないか。何しろ、都市住民は消費の達人だから...

例えば、あけぼの通りのメタセコイアの並木は息を飲むほど美しい。こんなに美しい並木道は他所では見たことがない。それもそのはずで、歩道幅員が6.5mは必要とされるメタセコイアが僅かに3mしかない歩道に植えられているのだから、普通は「あり得ない」のである。メタセコイアはそもそも「円形樹形を保ちながら道路側に4.5mの下枝高の確保は難しいので、円錐樹形の収まる広い空間の緑道並木などに適する」樹種であって、実は街路樹には適さない樹種なのだ。

狭い歩道に無理やり植えられたメタセコイアの根が行き場を失い、歩道を隆起させて手押し車の高齢者の歩行の妨げとなったり、排水管を詰まらせたりしている。針葉樹なのに落葉するので、雨水桝や雨樋を詰まらせる。成長が速いのでメタセコイアが住居の南側にある場合には日照が大いに妨げられる。街路樹はメリットと同じぐらいの数のデメリットもあるのだ。

開発業者にとっては、短期間で美しい並木道が形成でき、春には新緑を、秋には紅葉を、冬には樹形を楽しめるメタセコイアは、販売上は最適な選択肢だったのだろう。今更、東急のあざとい商法を恨んでも始まらない。歩道幅員5.5mなら「高い頻度と高い技術による剪定を行えば維持可能」だが、4.5m以下では「狭い樹冠の人工樹形または刈り込み樹形に仕立てられる場合以外は不適」なのだから、3mの歩道幅員しかないあけぼの通りのメタセコイアは極めて特別な維持管理が不可欠だろう。

景観法にもある通り、私たち住民は「良好な景観の形成に関する理解を深め、良好な景観の形成に積極的な役割を果たすよう努める」と共に「地方公共団体が実施する良好な景観の形成に関する施策に協力しなければならない」し、「地域住民の(多様な)意向を踏まえ」「共通の資産として、その整備及び保全」を図っていかなければならないのだ。単なる消費者として景観を独善的に「消費」するだけでは済まないのだ。

結局のところ、良好な景観は誰か特定の個人のものではなく、コミュニティ全体で「総有」すべきものだ。良好な景観を保全するには、コミュニティの成員が互いに少しずつ譲歩することを可能にするコミュニティ運営が必要だろう。良好な景観は良好なコミュニティ形成なくしては保全できないという至極当たり前のことが求められているのだ。